“やばい”だけじゃ消えてしまう感性がある。

恋の狭間で泳ぐ
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「やばい」で何かが失くなっていないか

「やばい」で済ませた瞬間に、私たちは何を失ってるんだろう。
整えるって、波動だけじゃなかった。
ほんとはもっと繊細で、もっと美しくて、もっと届きそうな感情があったはずなのに。
今、言葉の“整え”も必要だと思ってる。

1. なんでも「やばい」で済ます時代に感じる、違和感。

最近よく思う。
何を見ても、どんな気持ちでも、「やばい」で片付けられるのって、ちょっと寂しくない?って。

SNSを見ていても、
ご飯を食べて「やばい」
感動して「やばい」
推しが輝いてて「やばい」
友達と会っても「やばい」
恋しても「やばい」

…え、それって、どれも“同じやばさ”で括ってしまって、本当に大丈夫?

2. 日本語って、本来“整ってる言葉”だったと思う。

山吹色、緋色、薄紅、萌葱、青鈍——
同じ「赤」でも「緑」でもない、“感情と一緒にある色”。
虫の音や風の匂いさえ、表現しようとしてきた民族だったんよね、日本人って。

その繊細さって、まさに整ってる感性じゃない?

“なんかうまく言えない”気持ちにこそ、言葉を探して寄り添おうとする。
それが、昔の文通だったり、手紙だったり、ファンレターや恋人へのメールだったりして——

わたしも、自分の中の一番しっくりくる言葉をずっと探してきた。
ポエマーって言われたらそれまでだけど、その“こだわり”こそ、心の輪郭を守る方法だった気がする。

3. 言葉が整えば、感性も生き返る。

「やばい」で全部流してたら、もう“やばさ”しか感じられなくなる。

せっかく感動しても、それがただのテンプレになってしまったら、心が“鈍感”に整えられてしまう気がするの。

だから私は、自分の中の“整った言葉”を見つけてあげたい。
「切ない」と「苦しい」は違うし、
「嬉しい」と「泣きたいくらいに救われる」は、全然違う。

感性を削がずに、丁寧に使っていきたい。
そんな小さな選択の積み重ねが、自分の波動を守っていく整え方なのかもしれない。

【まとめ】

  • 「やばい」は万能だけど、繊細さを奪うこともある
  • 日本語の語彙は、感性を丁寧に表現できる“整えツール”
  • 言葉を大切にすることは、自分の波動を大切にすること

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